2024年1月27日(土)〜2月3日(土)に上演される弦巻楽団#39『ピース・ピース』。札幌劇場祭TGR2022で大賞&俳優賞をダブル受賞した本作を、早くも札幌演劇シーズンで再演します。
本作は「母」と「娘」を巡る3つの物語。そこで、皆さんの「母」のエピソードを大募集します!
皆さんのお母さんは、どんな人ですか?
皆さんが子どもの頃、お母さんはどんな人でしたか?
一緒に行った場所、手料理、怒られた思い出……。
嬉しかったことも哀しかったことも含めて、皆さんの「母の思い出」を教えてください。綺麗な内容である必要はありません。
エピソードをお送りいただいた方の中から、抽選で3組6名様にペア招待券をプレゼント!どうぞふるってご参加ください。
応募締切 2023年12月31日(日)23:59
応募受付は終了いたしました。たくさんのご投稿ありがとうございました!!
みんなの「母の思い出」
皆さんから募集した「母の思い出」を掲載しています。中には公演関係者の思い出も……。
私の母は、家と外での話し方が全く違う人です。お母さんあるある的な感じで皆そうだとも言いますが、私の母は特に違うかもしれないと思っています。
家では変な声で歌ったりディズニーキャラクターのモノマネをしたりしていますが、外や電話では笑顔をキープしながらアナウンサーのように話しています。
小さい時は信じられないと思っていたのですが、最近私にも移ってきた気がして恐ろしいです。
先日、TVか何かで、たくさんのお弁当の中から自分の母親の手作り弁当を当てる企画を目にした。
「うちだったらどんなのを作る?」
と中高六年間、私のお弁当を作ってくれた母に訊いてみる。
「とりあえず唐揚げじゃない?」、「ミニトマト入ってたらそれは候補から外れるでしょ」、「チーズと海苔を巻いたやつ! あれ入ってたら一発でわかる!」と親子で盛り上がった。
聞けば、最近じゃご飯に段差をつけてその上におかずを乗せるなんておしゃれ技術も身につけたらしい。さすがは母、戦いの中で進化している……。
私が はじめてのおつかい をした時、実は母がずっと後ろから着いてきていた。
保育園の帰り道、夏だと自転車ですが冬だと歩きで家まで母と帰っていました。寒いし雪で歩きづらいしで4、5歳の私はすぐ歩かなくなってしまうのですが、そんなとき「げんきのもと」として母がキュービードロップという飴をよくくれていました。私はご機嫌に雪玉をつくったりして帰っていたそうです。
大人になってからたまにその帰り道だった道を歩くと家までそんなに距離はなく、自分が大人の歩幅になったことを毎度感じます。
身体が弱いけどちゃきちゃき末っ子、漁師の家系の次女の母は、当時読売ジャイアンツの選手だった仁志敏久さんを応援していた。母は小柄なので、172㎝ながらパワフルに躍動する彼にシンパシーを感じていたのだろう。 病弱で小柄な私の負けん気の源泉、まさにここにあり。
なんか、舌に合わないものを自宅で食べた時にコンクリートの味する とか、なんか絶対食べたことないよね!?みたいな独特の表現をするのが私の母です。
母は苦労した。
祖母は家事は嫁がやるものと一切の家事をしなかった。
母は、仕事から帰宅した夜七時、お腹を空かせた僕らの夕食の準備をし、お風呂に入れて。
僕が喘息になった。一晩中看病をして、大して寝ないまま仕事に行った。
弟も喘息になった。弟は入院し、母は仕事しながらお見舞いに行って、家事もして。
兄が学校に行かなくなった。非行に走った。
祖母がアルツハイマーになった。家の中は混乱した。
それでも母は仕事をして、家事をして。
我が家は決して裕福でもなかった。
母は、新しい仕事を得るために、車の免許を取った。
学校に行き渋る弟を3年間、車で送ってから仕事に行った。
母は父のことが大好きだった。周りを見てもなかなかいない仲の良い夫婦で。
母は、僕ら子どもたちより、父の方が大切だと言う人だった。
父のことが大好きだったから、いろんなことに苦しみながらも、仕事をして家事をしてこれたんだろう。
ぼくら兄弟がどうにか自分のことを自分でやれるようになった。
母は少し自由になった。
父が患ったガンは再発もなく、母は楽になれそうだった。
母はリウマチを患った。身体が思うように動かなくなった。
初孫を溺愛していた。弟夫婦はその孫とともに家を出ていった。
でも父がいたから、母は幸せだった。
父が事故で亡くなった。
何年たっても、父の穴を埋められない。
苦しいことも悲しいことも父がいたから、母は生きてこられた。
いま母は元気だ。
昔から人に愛される人で、友人も多く、頼られる人だ。
僕もそんな母のことは好きだ。
でも、一言多いところも、自分中心で話を進めたいところも、優しくありたいのに駆け引きをしてしまうところも、僕自身とそっくりで、そんな時、母のことを嫌になってしまう。
だけど、母はちゃんと周りに愛される人だ。
僕も母に頼ることがある。母だから話せることもある。
母は苦労した人だ。
もう、父がいないその家に、家族は集わない。
きっと父への母の愛があの家そのものだったから。
これからも埋まらない穴、母は時折そこに吸い込まれそうになる。
父のことを一途に愛したことが報われたかどうかは、きっと誰にもわからない。母に聞くこともないな。
私の母は今、妖精になってしまった。
小さい頃はとにかく厳しくて、怒られている記憶しかないが、羽根が生え始めたのはいつだっただろうか。いつのまにか、ぶっ飛んだ発言をして、フワフワ飛んでいってしまうように。
その後ろ姿を見ながら、母に苛立ちを隠せない私。 あぁ、小さい頃の怖くて厳しい母に私がなっている。訳のわからんことを言って、恥ずかしい! と言われたことをそのまま母に感じている。
いつかは私も妖精になるのかもしれないのに。
私は母のことを「はは」もしくは「◯◯さん」と呼んでいる。仲が悪いとか嫌いなわけではない。
バイクで事故って救急車で運ばれた時「ご家族に連絡を」と言われて母に電話をした。
「電話できてるってことは大丈夫だね」と笑って返してくれた母。あぁ、こういう人だよな、となんだか安心した。
私の母は専業主婦で、毎日私と弟の世話をしてくれていました。
ある日、母が自分の趣味などをしていない事に気づき、それをつまらないと感じた私は「お母さんの生きがいとか人生の目標みたいなのってないの?」と聞いてみました。すると「あんた達が元気に育って幸せになることよ。」と事も無げに言われました。私は、それなら母の幸せは私達に掛かっているの? と母に密かな怒りを覚えました。
しかし、娘が産まれた今は母の気持ちが理解できます。将来娘に同じような事を聞かれたら、きっと私は同じように答えてしまうんだろうなと思います。
僕の家はシングルマザーでした。仕事もしていて帰ってくるのも夜遅い日が多く、一緒に夜ご飯を食べることも少なかった。
そのせいか、沢山ゲームやおもちゃを買って貰いました。飽きっぽい&すぐクリアしてしまうのでかなりの量があります。
他にもやりたいと言った習い事もさせて貰いました。僕がお金に困ったこともありません。
大人になってからそれがとてつもない深い愛情で、どれだけ大変なことか計り知れないことに気が付きました。
僕もそんな人に愛情を注ぐことの出来る人間になりたいです。
私が小さい頃、母と一緒にコンビニに向かって歩いていた時のことです。
ある家の前を通ると、1匹の白い犬が大きく吠えながら飛び出してきました。
私は恐怖で走って逃げようとしました。
しかしそれよりも速く、母が更に大きな声とすごい剣幕で犬のように吠え返したのです。
犬はびっくりした様子でその後も威嚇するように何度か吠えましたが、その度に母に倍で吠え返されるのでそのうち引き返していきました。
いつも優しい母が獣のように私を守ってくれたこの出来事は、今でも鮮烈に覚えています。
今では私も母になりました。
我が子に危険が迫った時、あの時の母のように我が子を守れる強い強い母になりたいと思います。
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